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2016年7月 5日 【社長ブログ】
安岡教学を学んで7年(EMBニュースNo.117より)

 いつもお読み頂き、有難うございます。

関西師友協会というところで安岡教学を学ぶことになって、もうすぐ7年になろうとしております。なぜ学ぼうと思ったのかというと、当時の塾長にノセられてしまったからです。関西師友協会では、当時若手の育成を目的に、40歳未満の者を対象にした塾を立ち上げるところでした。その塾は月に1回、朝から夕方までみっちりと安岡教学を学ぶというものでした。具体的には、安岡正篤先生の著作、論語や大学などの儒学、そして日本の歴史や人物学等です。私は、温故知新という言葉が好きで、こうした勉強が嫌いではありません。しかし月に1回、冠婚葬祭以外は欠席してはならないというなかなかストイックな塾でしたから、やや逃げ腰になってしまい、最初のガイダンスのときに「先生、私は既に40歳になっております。対象外になるのではないでしょうか」と尋ねたところ、当時既に70歳を超えておられた塾長は、ギョロっと眼鏡越しに私の目を見て「やるかやらんかは、君次第や」とおっしゃったのです。多少負けん気もある私は、その言葉に「試された」と思い、「じゃあ、やりますよ」と応えたのでした。あの時、塾長は私を本当に試したのかどうかはわかりませんが、それからもうすぐ7年になります。

 

 塾が始まった頃は、とにかくついていくのに必死でした。旧仮名づかい、旧字、今では使われなくなった単語、漢文の読み下し方など、消えかかっていた学生時代の記憶を引き出し、わからぬところは辞書を引っ張り、調べることを繰り返す。今では使われない言葉もたくさん出てくるので、インターネットよりも辞書のほうが早いのです。まさかこの時代にこれだけ辞書を開くとは、思いもよらなかったことです。そうした学びの自己評価としては、「これだけやったのだから、自分はそれなりの理解ができているのではないか」というものでした。しかし、学びを数年に及んで重ね、改めて過去に読んだ本を開くと、「あぁ、こういうことか」と、かつての理解が表面的で浅かったことを反省することになったり、或いは自分が以前より深く理解していることに気付いて、楽しくなったりするものです。そして得た学びが、私自身の仕事や生活の中で、日々活かされていると実感することが増えてくるのです。

 

 ところで先日のことですが、同じ塾生の仲間から「俺ら、何のために学んでいるんやろね?」という、極めて単純な疑問を投げかけられたのです。私自身、それに対して簡明な言葉を返すことができなかったのです。今一度原点に返って、塾が開講した頃の書類をかき集めてみました。すると、①日本人の思想、信念、精神性を取り戻し、未来の日本社会を支える強固な人材の育成をはかる ②日本の先人がつくりあげてきた歴史・文化・伝統を学び、過去から現代、現代から未来にむけて日本人の誇りと自覚を強く意識づけることによって、一人ひとりが主体性のある人材に育ってゆくこと ③メンバー同士で相互研鑽を深め、切磋琢磨することによって創造性と主体性のある人材になる となっていました。

 

 「日本人として強固な人材になる」という文字を見て、ふと10年ほど前に話題作になった「国家の品格(藤原雅彦著)」という本を引っ張り出し、パラパラとページをめくってみました。ここには、塾でもっと突っ込んだ話をしていることが、平易に書かれておりました。平易な文章は読みやすくて良いのですが、私自身は、またもや「あぁ、平易な文章に甘えて浅い読み方をしておったんやなぁ」と反省することになります。日本の精神性や思想については、なんとも言葉にするのは難しくて、持って生まれたDNAというか躾というか、見えにくいものではあります。世界から見たとき、「日本人の感性はわかりにくい」と言われるゆえんです。しかし確実に存在しているものであるし、勉強すればするほど、それが私たち日本人に合っていると思うし、大切にしなければいけないと感じるところです。

 

 ここで日本精神だとかを述べはじめると、このニュースの記事が全部私の話になっても足りなくなってしまいますから、お話は置いておきます。安岡先生は昭和58年に他界されており、私はその謦咳に触れることはできなかったのですが、先生が「学ぶ」ということを語るときには「『古教照心』ではなく『心照古教』でなければならない」とおっしゃっていたようです。「古き教えが心を照らす」のではなく、「心が古き教えを照らす」でなければいけない。一度や二度書物を読んだところでは、せいぜい書物の内容が自分の心を照らしてくれたというレベルに過ぎず、自分で咀嚼して味わって血肉にしたときには、心が書物を照らすレベルになる。そうしたときに、本当に「わかった」ということになるのでしょう。学びとはそういうものでなければ、本当に活きたものにならないということです。孔子は「五十にして天命を知る」とおっしゃったようですが、まだ私はその域にも達しておりません。壮にして学べば老いて衰えず。学びに終わりは無いのでしょう。

感謝

投稿者: ホワイトマックス | 日時: 2016年7月 5日 11:51 | トラックバック (0)

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